[]




 ◇ ◇ ◇


「この人をご存知ですか」
「……高上誠二さん、です――」
「お知り合いなんですね」
 遠くに聞こえる声に無意識に頷いた。
 集中治療室の窓から、呼吸器をつけた誠二兄の姿を見ていた。
 血の気の失せたその顔を、ぼんやりと見つめる。
 これは現実なんだろうか。
「なにが……あったんですか」
「川に落ちたようで、通行人に救助されたんです。一時は心肺停止になりましたが、ひとまず容態は落ち着いています」
 病院から連絡があったのは、深夜だった。水没した誠二兄の携帯が一瞬起動した時に、着信履歴から俺の携帯番号を探し当てたらしい。
 病院に着いてすぐにナースステーションに声をかけると、看護師が集中治療室まで案内してくれた。
 丁度治療室から出てきた医者と看護師が俺に目を留めて、こうして話をしてる。
「かなりの高さから落ちて、川面に叩きつけられた衝撃で意識を失ったようです」
「助かるんですか」
「容態は落ち着いていますが、意識が戻ってみないと何とも言えません」
 遠退いていきそうな意識を床に縛りつけた。全てがぼんやりして現実味がない。
 ふらついた拍子に、看護師にやんわりと腕を引かれて正気を保つ。
「大丈夫です、すみません」
 窓越しに、眠ったままの顔を見つめた。誠二兄の寝顔はいつも穏やかに見える。
 気がついたら俺は、ロビーの椅子に座ってぼんやりしていた。静まり返った病院の中を時々夜勤のスタッフが通り過ぎていく。
 所在なげに、手の中の携帯の誠二兄のメールを見返した。
「――これは……なんだったんだろう」
 考え込みそうになる度に、また集中治療室の前へ行く。相変わらず誠二兄は眠ったままだ。
 そんなことを繰り返している内に、夜が明けていた。




「秋川穂さんですね。お話伺えますか」
 明け方に、深夜から居ついたままの病院で声をかけてきたのは、警察手帳を持った初老の男だった。
 その遥か後ろから、廊下を足早にやってくる足音がする。
 誠二兄のお母さんだ。
 思わず顔を伏せる。俺のことは目に入ってないみたいで通り過ぎて行った。
 ロビーの椅子に座ったままの俺に、刑事の声が降ってくる。
「高上さんと最後に会ったのはあなたですね」
「……そうなんですか」出してみれば、気の抜けた張りのない声だ。
「高上さんとは親しかったのですか」
「親しいと言えるか……わかりませんけど」
 言って、虚しくなった。
 今更だけど、ひどい関係だったなと思う。確かなものもなく、ただただ体を繋げてた。俺が一方的に好意を寄せて、誠二兄の気まぐれの中に都合良く愛を読み取っていた。
 視線を上げると、廊下の先で誠二兄のお母さんと医者が話しているのが目に入った。じとりと手に汗を掻く。
「秋川さん?」
 刑事に怪訝そうに声を掛けられて、聴取に意識を戻した。
「あなたの、一昨日から昨日の朝にかけての行動をお聞きしたいのですが」
「……一緒に食事して、その後、誠二に……高上さんの部屋に行きました」
「何時頃まで一緒に過ごされていたのですか」
「夜中です。正確な時間はわかりません」
「お二人で何を?」
「食事をして、その後はセックスしてました」
 刑事が固まる。
「恋人で、いらっしゃる」困惑顔だ。
 遠まわしに言うのが面倒だった。もうどう思われてもいいと思った。
「セフレです」
 どうしたものかというように、刑事が顎を撫でている。
「朝の5時頃、高上さんが川に落ちたのを通行人が目撃しているのですが、その時あなたは何を?」
「部屋で寝てました。高上さんは……俺が目を覚ました時にはもういなくなってて」
「お心当たりは」
 え、と顔を上げる。
「高上さんに自殺の動機になるような、変わったところはなかったですか」
 言葉が出なくなった。
「……自殺?」
「その可能性が高いです」
 頭が真っ白になる。
「携帯に……メールが来てました……」
「拝見しても?」
 画面に表示させっぱなしのメールを見せる。
「……別れ話、ですか」
「たぶん」
「明け方、4時52分のメールですね」
「……俺がこのメールを受け取ったのは午後です、手動で受信する設定にしていたので」
「なるほど」何か考えるように顎を撫でて、刑事が口を開く。
「あなたは、セックスフレンドだと仰っていましたが、この文面からは恋人でいらっしゃったように思えますが」
 ――恋人。
 その響きが鼓膜に触れた途端、音もなく涙が落ちた。
 刑事が一瞬ぎょっと目を丸くする。
 頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「……動揺されているところすみませんが、別れ話が原因では?」
 動揺なんてしてない。ただ、わからないんだ。俺には、誠二兄の気持ちが全然わかってない。誠二兄がなんで自殺しようとしたかって?
『気持ちいいこと以外しない』
 そう言われて始めた関係なのに、俺は返ってこない心をひたすら注いで誠二兄を困らせ続けた。何度も終わりそうになって、そして昨日終わったんだ。
 一昨日の誠二兄はたしかに変だった。別れるって言ったその後に、なぜか俺を抱きながら言った。
 愛してる、って。
 ……わからないんだ、何も。
「俺には、わからない……っ」
 死ぬほど、俺から逃げたかった?
 なんで。どうして。そんなに俺が嫌なら――。
「……言ってくれれば、俺が死んだのに……」
 刑事が息を呑む気配がした。
 知ってるよ、誠二兄。
 あんたは優しいから、ずっと俺を突き放せなかったんだ。
 あの夜。初めて誠二兄が別れようと言った。頷けばよかった。困らせなければよかった。
 近くに住んでるってだけで、母さんたちに頼まれて俺の面倒を見てたよね。本当に面倒だったはずだ。俺に好かれて煩わしかったはずだ。
 けれど弁当を買ってきて一緒に食べてくれた。毎日毎日。
 俺は一人じゃなくなった。本当に兄貴ができたみたいで。
 ――そんなあんたを、浮ついた気持ちで好きになった。
「俺が、もっと早く消えればよかった……っ」
 涙が溢れ出して手で顔を覆った。蹲った俺の背中に刑事の声が降る。
「落ち着かれたら、またお話聞かせてください」
 そう言って、俺の手にハンカチを握らせた。
 ……もう誰も、優しくしないでくれ。


 ◇


 次の日も病院に居た。何処にも行けなかった。
 集中治療室には誠二兄の親がいたから、俺は休憩所や待合室や病院の外でぼんやりしていた。
 死のうかと頭を過ぎったけれど、誠二兄のお母さんの悲壮な顔を見ていたらそんな気も失せた。
 外のベンチに座って体が冷えるままにしていると、日没前の夕暮れに長い影が落ちた。
 何も言わずに立っている姿がひどく華奢に見える。
「……母さん――」鼻の奥が、つんとした。「……ごめん」
 いきなり謝った俺を驚いたように見ている。俺はもう一度確かな口調で言った。
「すみませんでした」
 母さんはゆっくりと歩いてきて、あと3歩という距離で立ち止まった。
「誠二兄のこと、聞いたんだろ」
 母さんが、無言でそうだと言っていた。
「……俺のせいだ。俺が好きになったのがいけなかったんだ」
「やめなさい」
 母さんの声が震えていた。握りしめた手が震えている。空気は張り詰めて今にも割れてしまいそうだった。
「……ごめん。心配しないで」静かな声で言えた。
「俺、大学やめて東京を離れるよ」
 母さんが息を呑む気配がする。
「前から考えてたことだから」
 本当だ。虚しい時間を過ごす中、逃避するように考え続けていた。俺のすべてが誠二兄だけになってしまわないように。
「カフェ経営してる先輩に開業の仕方教わってて……なかなか踏ん切りつかなかったけど」
 誠二兄と離れた方がいいかもしれないとか、先が見えない関係をどうにかしようと思う度に、まだ見ぬ未来の可能性を心の拠り所にしていた。
「バイト代貯まったし、引っ越せば家賃も生活費も安くなるからそれなりにやっていける。授業料も返していくから」
「穂――」
「だからもう、誠二兄とは会わない」
 誠二兄の世界から俺を消したい――そう思った途端、急に誠二兄の不可解な行動の理由がわかった気がした。
 急に体を求めてきたり。一緒に夕食を食べてくれたり。逃げたり。別れようと言ったり。苦しい顔をしたり、握った手が震えていたり。
 ……そして、愛してると言って、消えてしまった。
 最後の夜の言葉を信じるなら、あなたは。

 俺を、愛してくれていた……?

 母さんの小さな嗚咽が聞こえる。アスファルトが夕日に染まる。
「……母さんの言う通りだったなー……」
 みんなを不幸にしてしまった。
 もう、やめよう。真実を知らないままで居られたら、誠二兄に溺れる夢に浸ったままでいられたのかもしれないけど。
「最後にするから、誠二兄が目を覚ますまでここに居させてください」
 お願いします、と頭を下げると、母さんは足早に歩み寄ってきて、ぎゅっと俺の肩を握り、去っていった。
 しばらくぼんやりと夕暮れを見上げていた。
 冬の風が髪を撫でていく。こんなにじっくり東京の空を見るのはこれが最後かもしれない。




 夜が迫ってきて、病院に戻る。
 集中治療室に続く廊下に差し掛かると、慌てて歩いてきた看護師に出くわした。
「意識が戻りました。反応もしっかりしてますよ」
 口早に伝えられて、重い息を吐き出した。全身の力が宙へ抜けていく。
 廊下の先の集中治療室に続く自動ドアの奥に目をやると、誠二兄のお母さんと……父親だろうか、二人が慌てたように部屋に入って行くのが見えた。
 ……良かった。
 不思議と、心が落ち着いていた。
 あの人を散々に苦しめてしまった悪夢が、やっと終わる。
『もう終わりにしよう』
 その言葉の通りにする。今度は俺がそうするから。
「……バイバイ、誠二兄」
 人影のないロビーを抜けて病院を出た。
 たった二年足らずだ。全部夢だった。覚めればすぐに忘れる。
 たしかに悪夢のようだったけど、俺にとっては甘くて切ない夢だった。
「……愛してる」
 夜が降りようとしている空に呟いて、俺は夢の終わりの道を歩いた。




初出 2012/05/20
修正 2019/12/22

続編>>サディストの憂鬱(Kindle版)




[]







- ナノ -